[アートの可能性]
私達は、
世界中の人々とのコミュニケーション方法として、
「アート」の可能性を探求しています。
私達が生きる現在、そしてこれからの未来の為にも、
人種や言語、文化や宗教、世代や時代、そして、心と身体。
様々な「壁」を超えられるコミュニケーションが必要であり、
「アート」にはその可能性があると信じているからです。
[アートの可能性]
私達は、
世界中の人々とのコミュニケーション方法として、
「アート」の可能性を探求しています。
私達が生きる現在、そしてこれからの未来の為にも、
人種や言語、文化や宗教、世代や時代、そして、心と身体。
様々な「壁」を超えられるコミュニケーションが必要であり、
「アート」にはその可能性があると信じているからです。
コミュニケーションが取れないことは、 想いを分かち合えないことであり、
その分かち合えない想いが、 本来ならばシンプルな課題を、より複雑な問題にしていると考えられます。
複雑化した問題は、争いや差別、格差の原因となり、 さらには歳月を重ね過ぎたその複雑さに、
人々はコミュニケーション方法を探すことすら止め、諦めてしまっている現状があります。
しかし、「アート=コミュニケーション」という可能性を理解出来れば、
想いを分かち合う為のコミュニケーションを、人々は再び試し始めるでしょう。
これからのコミュニケーション方法を考える上で、「テクノロジー」の役割が重要なことも周知の事実です。
近年の「テクノロジー」の進化は目まぐるしく、音声認識、翻訳機能、タッチ不要の操作パネルまで登場し、
不可能に思えていたコミュニケーションすら、全てテクノロジーがフォローしてくれる未来も近いと言えます。
コミュニケーションの観点からは、アートとテクノロジーは密接に共存し、互いを補い合える関係にあります。
テクノロジーがフォローしてくれるコミュニケーションを「外的コミュニケーション」、
アートによるコミュニケーションを「内的コミュニケーション」とした時、
ほとんどのコミュニケーション内容は、外的コミュニケーションだけで通じ合えるでしょう。
しかし、外的コミュニケーションだけでは通じ合えない、伝えられない「何か」は確かに存在し、
この「何か」を伝え、通じ合うために必要となるのが、
内的コミュニケーション=アートによるコミュニケーションなのです。
外的コミュニケーションだけでは伝えられない「何か」とは、
= 感情、気持ち、想い、思想、理念、信念、アイデンティティ等々、
思いつくだけでも沢山ありますが、これらは「アート」を創作する原動力と非常に類似しています。
私達は、この類似こそが「可能性そのもの」だと考えています。
大昔から人々は、伝えたい「何か」を「アート」に込めるように創作し、
そして「アート」に触れた人々は、不明瞭でも確実にその「何か」を感じ取り、解釈し、受け取ってきたのです。
「何か」を伝えるための「アート」は、触れられ、感じられ、解釈され、受け取られた時、
「コミュニケーション」としての役割を十分に果たしていると言えるでしょう。
私達は、その一連の流れと方法を、周知の事実と言えるほどに明らかにしたいと思っています。
コミュニケーションは取れない、「壁」は超えられないと諦めてきた人々に、確固たる事実として提案したいのです。
そして、複雑な問題をシンプルな課題に戻し、争いや差別、格差の原因を無くすことに努めたい。
私達の活動は、この「想い」が原動力です。
この活動の副産物が私達の「作品」であり、
具現化したことで、半永久的に存在していく私達が「想い」を込めたその「アート」は、
時代を超えたコミュニケーションを可能にすると確信しています。
私は、
世界中の人々とのコミュニケーション方法として、
「アート」の可能性を探求しています。
私達が生きる現在、そしてこれからの未来の為にも、
人種や言語、文化や宗教、世代や時代、そして、心と身体。
様々な「壁」を超えられるコミュニケーションが必要であり、
「アート」にはその可能性があると信じているからです。